この目に映る一切の情景 8

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 ナルトは再び昏倒するように眠りに落ちた。
 状態は思ったより悪い。もう少し身体を拭いてやって、あわよくば着替えさせたいとも思ったが、そんな余裕はなかった。
 体温計で測ってみると、熱は三十九度を突破していた。
(……上がってる)
 発汗が始まり、意識も戻ったことだし、ならば熱も少しは下がるだろう、というカカシの希望的観測は見事に外れた。
(薬が効いたのか効かなかったのか、これじゃあ判らないな)
 保冷剤を新しく替える。それでも暑がってもがくので、大腿の付け根にも追加した。絞ったタオルで額を冷やしてやると、ようやく呼吸が落ち着く。
 いつの間にか時計の針は真夜中過ぎを指していた。
 何度目か。額に乗せたタオルを取りかえた時、再び睫毛の隙間に青い色が見えたような気がした。
 ナルトは薄く目を開いており、一瞬だけ視線が合う。
「起きたか?」
 言い終わる前に相手は目を閉じてしまう。その後は、名を呼んでも答えない。
 返事をするのも辛いのか。だが、意識はあるようだ。毛布の中で腕が動くのに気付いて、こちらから手を探り、指を握ってやる。
 すると、規則正しくても浅く早かった呼吸が、少しだけゆっくりと深くなった。
 胸が痛くなる。こんなふうに縋られたら、本当に離せない。
 もう少しだけ深く握るように指に力を入れて入れると、ナルトの手もピクリと震えてそれに応えた。
 ずっとそうしてやっていたが、弱々しく縋る指先の力は、なかなか離れていかない。
「眠れないのか」
 尋ねると、また指が少しだけ動く。
 励ましながら水や薬を勧めてみたが、やはり反応はなかった。何分も経って、忘れた頃に、何やら唇を動かした。
「ん?」
「……センセー……」
「どうした」
「カカシせんせぇ……」
 ただ呼ぶだけだ。他には何もない。眠るのが嫌なのか。さっき言っていた夢を繰り返し見るのが怖いのか。
 目を開けるほどの気力も湧かないようだ。
 ただ、そんなふうに何度も呼ばれ、指先で頼られれば、求められていることは自然に伝わってくる。繋いでいた手ごと、毛布から出してしっかりと握る。もう片方の手も使って、両手で包み込んだ。
「ここにいるよ」
「……セン、セ……」
 ナルトは苦しそうだった。声にもならない、息だけの囁き。熱を持つ呼吸。
「どこにもいかないよ……」
 赤味を帯びた指先と腫れた関節が痛々しかった。口元へその指を引き寄せ、そっと唇を押し当てる。



 明け方までは、そうして手を握り締めていた。ナルトの眠りが深くなったのが分かっても、カカシはとても寝入る気になれず、タオルを替え、汗を拭き、体温を測り、保冷剤を取り替えて、また手を繋ぎ、ひたすら夜明けを待つ。
 が、徐々に窓の外の色が変わり、カーテンが明るく染まって朝が訪れると、気が緩んだのだろう、いつのまにか眠ってしまったようだった。
 比較的大きな物音で目が覚めることになった。
 近くのドアを開け閉めする音に飛び起きた。
「せんせー……」
 ナルトは起きて、立ち上がっていた。丁度トイレから戻ってきたところらしい。
 取り敢えず自分の世話が焼けるのだったら、最悪の状態からは脱しているようだ。朝が来ても意識を取り戻さなかったらどうしよう、という懸念は去った。
 安堵しつつも、あまりに悲壮な相手の様子や、暗い表情、回復が見られない顔色の悪さに、思わず眉間に皺が寄る。
「どうした」
「吐いた……」
「……何を吐いた?」
 胃の中は、とっくに空っぽのはずだった。血でも混ざっていたらまずいと思って尋ねるが、
「わかんねぇ。何にも。なんか、……にがい」
 ナルトは顔を顰めた。どうやら胃液だけだったらしい。
「そうか、症状が胃に出たようだな。気持ち悪くて辛かっただろ」
「うう、先生、オレ死ぬの?」
「は?」
 目が点になる。
「……もしかして吐くのも慣れてないのか?」
「うー……」
 唸り声を上げる。どうやらその通りらしい。それならナルトが受けた衝撃も、少しは想像の余地がある。吐くという経験自体が少ない人間にとっては、相当堪えることだろう。
 かなり可哀想な事になってるな、とカカシは感じた。
「この熱病は、呼吸器や胃腸にも影響が出る。咳とか鼻炎とか下痢とか、吐き気もそのうちの一つだ。そう不思議なことじゃない」
「ホント……?」
 目に涙を溜めて立ち尽くしている。涙脆い子なのは重々承知だったが、これには参った。
 大体、たった一晩でこんなにげっそりとやつれてしまうなんて、ここまで惨めに弱音を吐きまくるなんて、いつもの元気と大声と頑丈さが売りの彼とは、もう別人だとしか思えない。
 しかも、オレ死ぬの、なんて聞かれた日には。
 本人は大真面目に怖い思いをしているのだから、笑っては悪いのだが。
「ああ、だってお前、立って歩いてるでしょ。昨日の夜なんか、寝たままで返事も出来なかったんだから、状態が悪くなってるわけじゃないのに、どうしてそうなる」
「だって……まだ頭がぐらぐらしてて、すっげー痛いってばよ……」
「うーん、熱は下がってないようだな……。食欲は?」
 聞かなくても、この様子では何も腹に入らないだろう。案の定、ナルトは小さく首を振った。
 手と顔は洗ったようで、前髪が少し濡れている。ベッドに座らせ、着替えさせた。体温計は三十九度近くを指したままで、その測定結果に、ナルトは再びがっくりと肩を落とした。
「ま、水さえしっかり飲んでおけば問題はない。少し糖分と塩分、混ぜるからな」
 胃腸に症状が出ると脱水症状の危険性が高まる。水分補給だけは気を付けよう、とカカシは気を引き締めた。
 力無い背筋を支えて遣りながら、ゆっくりと飲み終えるのを見届ける。
「なぁナルト。ダメな時は、何をやってもダメなもんだ。こんな時ぐらいは成り行きに任せて、あんまり頑張ろうとしなくてもいいんだよ。オレが付いてるから、そう落ち込むな」
 ぐす、とナルトは鼻を鳴らす。何だか、小さな子供みたいだ。
 ナルトが今よりもっと小さかった頃、担当上忍に着任したばかりの頃を思い出した。
 同時に、傷付き疲れて弱り果てたこの子を両手に抱えた時の記憶が、脳裏に甦る。雨に濡れた地面。……終末の谷で戦った二人の内、自分は片方の子だけを連れて帰って来た。あの日の記憶。
 肺の内側が小さくきりりと痛んだ。横たわらせ、毛布を掛けてやりながら、他の誰に対してもやったことがないような甘やかし方をする。やつれた頬に唇を寄せ、丁寧に毛布を掛けて寝心地を整えてやった。
 潤んだ瞳が見上げてくる。
「……センセー……」
「おやすみ、ナルト。お昼頃にもう一度起きような。その頃には何か食べたくなるだろ」
「うん……」
 頷き、ナルトは何か呟いた。唇の動きだけで、声にはならない。嬉しい、ありがとう、と言ったように見えた。
 優しい気持ちになって、笑みを返す。露骨に目尻が下がって口元が緩むのがわかる。
 かわいいなぁ、と心から思った。いじらしくて、大切で、愛おしくて、守りたい。頑是なく縋られれば心まで繋がっているかのように錯覚しそうだ。病気が治ったら、本当にこの気持ちを伝えてみてもいいのではないか、とすら思えた。
 だんだんと下がってゆく目蓋が、やがて完全に閉じる。見守っていると、また唇が動いた。
 カカシ先生、ともう一度呼ばれる。
「なーに、ナルト」
「ん、……センセ……大好き……」
 うわごとのように、それだけを囁くと、ふっと息を吐いて、ナルトは再び眠りへと落ちていった。









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